2012年10月24日水曜日

新作『言葉』について思っている事


稽古場で今回扱う言葉(セリフ)を聞いていると、写真を見ているような気になってくる。普段写真を見ているとき、毎回どうしてもその写真についての言葉を探そうとして必死になり、あまり言葉が出てこない事にあせってばかりいて、そういう言葉にしなければという圧力をいつも感じている。人によっては軽々とその写真についての感想なり印象なりを言う事があるので、それを聞いた時にいつもふっと拍子抜けしたような気分が訪れる。
で、そんなことはどうでもいいのだがとにかく、稽古場で発せられる言葉というのは8月6日から13日までの8日間に被災地を旅した言葉のことで、それを今聞く経験が、その時に撮った写真のように聞こえてきているということが言いたい。出演者の一人は旅中、ビデオカメラと写真のカメラを持ち歩いていて、行く先々で撮影をしていた。帰ってから両方みせてもらって、その時は気付かなかったけど、だんだんと映像と写真の明らかな違いが少しずつ見えてきた気がする。稽古をしていて、その出演者の言葉の中には映像を撮っていたときの記憶はあるが、写真を撮っていたときの記憶がまったく無い。なんで?と聞いてみると、ビデオカメラは重いからという理由(三脚もついているから)だった。写真のカメラは軽いので自分の動きと同化していた、というようなことを言っていた。で、今回の作品で扱う言葉は旅の記憶(記録)によって生み出されると考えると、ほとんど憶えていない写真を撮ったときの事よりも、ビデオをまわしていたときの事の方が重要だし、より深い経験だったように思ってしまうけれども、実はそうじゃないんじゃないかと気付きだしている。二つとも「断片」である事には変わりは無いが、時間のあり方が全然違う、というか、記憶(記録)のあり方が全然違う。というより、そんなに難しい事ではなく、単に映像は動いていて、写真は止まっているということに気付く事だけが重要だったのだと思う。
言葉によって記憶(記録)が止まるのか、記憶(記録)によって言葉が止まるのか、どちらが仕掛けるのかはわからないが、出演者が話す言葉は写真だと思えたら良いなあと思いながら、そのように仕上げていくのかもしれない。言葉というのは普通、動いている感覚だけど、動かない止まっている言葉を一つ一つ飾っていくような時間をつくろうとしているのかもしれない。出演者は二人なので、二台のスライド映写機が代わるがわる写真を投影していくようなイメージ。それでその他の空間の時間はそんな事とは全く関係なく進んでいくということ。そんな感じのことを思っています。